惜別の歌

snack212012-09-17

先週の金曜日、21世紀のお客様で最高齢(88歳)の神原先生が遠い、
舞鶴からご自分で車を運転で又ご来店下さいました。
中央大学に入学(昭和18年)されましたが19年10月頃からどの大学生も軍事工場へ・・・
神原先生も赤紙を受け取り、一度戦場に行くと生きて帰れる可能性は殆ど無くご自分で死に場所を選び「特攻隊」へ。送別会も無くお酒も無く番茶で乾杯でした。
その頃1学年下の藤江英輔さんが島崎藤村の惜別の歌にめぐり合われ詩の原題「高楼」で嫁いでゆく姉と妹のわかれの詩で藤江さんはバイオリンを弾く学生で「悲しむなかれわが姉よ」と原詩では姉ですが藤江さんは其れを「友」に変えて出征して行く友を送る歌に。
終戦後の混乱期にこの歌が広まり藤村は18年に亡く成っておられたが版権が残っていたので勝手に変えられなかった。
藤江さんが卒業後に就職した新潮社に藤村の三男が居られ惜別の歌のレコードにする許可を頂かれグリークラブ男性合唱団によってレコードに。
そして昭和30年に「歌声喫茶」で昭和の歌として歌われるように成った・・・
神原先生に「惜別の歌」にはこのような経緯が有ると教わりました。
作詞者藤村さんはお亡くなりに成っていますが藤江英輔さんはご健在です。この方は惜別の歌を歌う時「50回に1回でもイイからこの曲が出来た戦争の時代を思い出して欲しい」と・・・
今は小林旭さんが歌われ21世紀では人気曲のひとつです。
尚神原先生は終戦後に舞鶴の中学校の先生になられ一番上の教え子さんは
78歳になれれるとか・・・21世紀には神原先生に教わられた河西先生(71歳)がいらっしゃいます。
神原先生がご来店なので「先生にメッセージを」と言いましたら「未だ生きてると言うといて」でした。神原先生からの返信は「長生きせよ!」といわれていました。