越智順子ちゃん(ジャズシンガー)の訃報を

snack212008-07-31

28日朝から新聞を読むことも無い私が31ページを開いた途端27日にご逝去が記載。ショックで・・・。
22年前、経験も無い私が始めて水商売に入ったころ大学生ばかり6人が交代で手伝って貰いました折、彼女も仏教大学の4回生、兎に角明るくて可愛くて・・美人でした。高知から出て来たから「私が始めて京都に着いたとき、男の人がハンドバックを持っているのが一番びっくりした」と言ったのを今も覚えています。男性のセカンドバックでしょう、流行っていましたね。卒業する時に悩んでいましたね。就職すべきか歌をやって行くか、大学ではフオーク・クラブで学校まで聴きにスタッフ何人かで行きました。カラオケを歌ってもパンチある声はズバ抜けていました。アンルイスさんの「六本木心中」が大好きでしたね。進路で私の知人のS夫人に相談して何処かで観て貰われたのか彼女は歌を続ける事に成り、神戸でアルバイトをしながら「シャンソン」を習っていると耳にして・・・数年音沙汰もなく過していましたが2001年に元スタッフが奈良で彼女の出演する情報を耳にして会場に行きCD販売の場所で彼女が「○○ちゃん!!」と再会を喜んだ様でした。その前に彼女は姫路のジャズクラブ「WISH](ウイッシュ)のオーナーさん(ベーシスト)石橋敬一さんのお店でライブをしてこの方に発掘され全国デビュウをさせて頂き数年前に彼女のライブが京都の「ラグ」であった時にバイトをしていた時のお客様初めバイト仲間大勢と聞きに行き立派なジャズシンガーに成って驚いたものでした。その時に順子ちゃんが「年間365日の内300日はライブが入っています」と話してくれてその後お客様やバイトの仲間だった友人などを連れて大阪のライブハウスに聴きに行きました。「KEITH]他数回聴きに行きました。バイトの頃の同じお釜のご飯を食べたYちゃんを見つけライブ終わった時に通路で順子ちゃんと2人で「Yちゃん!」と抱き合って喜んだ姿今も記憶に有ります。そう私1人で大阪の野外公園で「市民ライブ」ゲストに順子ちゃん。インターネットのスケジュールで見つけお店が休みでしたので、彼女の大好物の京都新京極の「ロンドン焼き」を持っていった日楽屋で渡し、客席で私を見つけ手を振ってくれて、これも今では思い出に成りました。訃報を知ったのが28日で元スタッフ達に知らせ、お客様にも知らせ皆んなショックを隠せなかった様です。私もその日は3枚の彼女のCDを掛けて偲びました。病気を知ったのも彼女のホームページで「早期治癒」のメールを打っておきましたら退院した旨を3月中頃にメールが来てその後、数回、希望を持った彼女のメールが着ていたのですが・・・退院して4ケ月後に逝去。喪主はご主人様のお名前で。結婚はしていないのかと思っておりましたので私は「順子ちゃんご主人様に看取られて良かったね」と思いました。彼女の携帯に電話しましたら今も彼女の声で「只今電話に出られませんので・・云々」夢であって欲しかった。一番感激しましたのは昨年の暮れ、確かクリスマスの日に「NHKテレビ」で長時間、彼女他、有名なジャズピアノのお方の演奏でライブ放映、黒人歌手の方とのジャズは良かったですね。ビックに成って行く彼女を見て「50代、60代、70代80、90歳」まで歌い続ける彼女を想像しました。志半ばで逝った彼女・・・ご冥福を祈ります。治療を頑張るって長いメールが来ていますのをご主人様にお見せしたいです。インターネットで「越智順子」さんでアクセスしますと十数万件紹介されています。毎日思う事は「順子ちゃん、何で?何で」惜しい。