snack212013-07-21

祇園祭の鉾順行が終わった途端、又人の数が少なく車もすくないのが異常です。そしてこの18日、19日の朝夕の涼しいこと。
このまま秋が来れば良いのに。
先月の29日土曜にも京都北、舞鶴市から90数キロを1人で運転され21世紀にご来店下さいました。お歳は前にも書きましたが90歳です。(29日にはあさりご持参の86歳の三村さんとお隣にお座りでご逝去の報を伝えましたら驚きでした)

さて今日は此方の神原先生は先週お約束の写真をご持参下さいました。昭和18年に東京神田駿河台のC大学に舞鶴市から上京され、其の時戦争が激しくなり「人間は如何に死すべきかと悩み、迷い「特攻隊」への志願されました。

この日、ご持参下さった写真は朝鮮半島に行かれ其処で練習された飛行機が3機が映った写真(白黒)でした。
「九七式単葉攻撃機」(キュウナナシキタンヨウコウゲキキ)と言う名前でした。
私はいっぱい質問させて頂き「この窓の所に乗るの!」「この飛行機に対して人間の背はどの辺ですか?」(背丈より1・8倍の大きさ)「何処から乗るのですか?」(先生は乗り口なんかないのでここの足を掛けて乗る)
「初めは後ろに教官が1人乗って教える」「それが済んだら1人で乗り3000メートルまで上昇し・・・下は一面、白い雲ばかりでね」
私は「地面から真っ直ぐ走って急に上にまっすぐあがるの?」と聞きましたら(飛行機はは急に真っ直ぐに上がらないプロペラで右へ右へ旋回して上に上がる)と言って笑われました。
「プロペラは回ると吸い込む力は凄くて人間も巻き込まれたよ」
その後毎日々々1000メートルから降下して地上から30メートルくらいで急に直角に曲がり敵の戦闘機や軍艦に衝突する練習をするのだよ」
「20人位の隊で3・4人は曲がり切れずに地上に激突して亡く成った同僚の制服をベットの上にたたみ、ろうそくが点されていた・・」
神原先生の同僚が次々戦地に九七式単葉攻撃機に乗り出陣され神原先生も次に出陣の手前で昭和20年8月15日終戦を朝鮮の温井里で敗戦を迎えられ南朝鮮の郡山への移動命令が・・・これが幸運にもシベリア送りにならず、若しシベリア送りに成っていたら長くは生きられなかった。
本当に神原さんは神から頂いた命と数年前から私の何度も言われて居ます。
だから神原先生は長生きして世の為、人の為に尽くされ今も京都市内に月に一度こられて(第3日曜日)にお勉強会平和他をされています。其の前日の土曜日に21世紀後来店いただきます。

神原先生は昭和20年に10月に舞鶴第一船・雲仙丸にと帰国。
下船した時日本の陸地に口付けしたくなり跪いて地面を叩き自宅まで歩いて帰った・・・「母親が僕のほほや顔中を撫でて抱きしめた」と言われました。

昨日は「産経新聞」((7月10日付け)もご持参。
神原先生のお書きになりました本「駿河台の空は暗かった」
神原たかし新聞の14ページに掲載されています。
21世紀にも置いていますので又お読み下さい。
(写真は17日の鉾巡行の日の松原先生の作品を頂きました)