1通のお手紙

snack212013-08-31

8月に入った時に神原崙先生の本「駿河台の空は暗かった」をお客様のM・O先生に送りました。読み終えられて25日にお手紙を頂きました。(以下の文そのまま書かせて頂きます)

「大戦体験記」
住所は東京新宿区だった。記憶に有る私の人生は、大戦が終わる前年から終戦の年にかけての戦争の恐怖と繊細にはじまる。この体験を何度となく世に紹介することを考えたが、それが出来なくて今日に至った。理由の1つに、学齢を重ね大戦への日本の関わりを知って被害者(戦災)の立場でのこの大戦を語ってもよいのかを思ったことがある。
もう1つは体験で受けたトラウマ(心的外傷)が余りにも大きく、語ることでそれがよみがえるのが嫌だった。
更に、何故か語ろうとするとみじめな気持ちになるのだった。
この思いから自分の子どもにさえ詳しくは話さず、自分史等に書き留めているのみである。
こうした個人的な理由で民族・庶民の貴重な戦争・被災体験を明らかにしなくてよいのか、半世紀以上にわたって葛藤してきたのだった。ここにおいてゆれる気持ちに終止符を打って体験を紹介し、若い人たちに戦争の恐怖・悲惨さと平和の尊さを感じ取ってほしと考えた。
  ○大戦の恐怖(1944年)と戦災(1945年)父戦士

小学1年時(1944年)に勉強した覚えはまったくない。
日常として、我が家や学校の防空壕堀、登下校に音もなく飛来する
小型戦闘機による機銃掃射を逃れる練習、登り棒登り、空襲警報の
度に学校の防空壕に飛び込む練習があった。食べ物不足がちになり空腹を訴えるとき、米軍が落す菓子類を絶対に拾って食べるなが母の厳命だった。
B29が編隊を組んで飛来するかっこよさとは逆に、日本のプロペラ機がB29に体当たりしてきりもみ状態で墜落する姿や、高射砲のの砲弾がB29の高さに届かずに破裂する様は子どもながらに見ていて情けなかった。
戦果を伝える大本営発表をラジオでよく聞いたが・・・
小学2年の昭和20年(1945年)4月3日「東京大空襲」を体験した。私は当日麻疹にかかり高熱をだして学校を休んでいた。
度たび鳴る空襲警報。その度に急ぎ庭の防空壕に飛び込んで横になった。何時でも逃げ出せるよう服を着、防空頭巾をかぶり、靴を履いてであった。怖いのと高熱が重なって壕でふるえていた。寒い夜だった。灯火管制下、暗い町にけたたましく空襲警報が鳴り、青白いサーチライトが夜空を不気味に照らしていた時、B29の飛高音とともに焼夷弾雨あられ落ちはじめた。
我が家の家の目の前に落ちた焼夷弾が轟音をたてて炸裂し、気味悪い色の火柱がめろめろと立ち上がった。
28歳の母は私をたたき起こし2才の3男を背負って逃げだした。
夜の火事は近くて大きく見える。麻疹の高熱と火の恐怖で腰が抜けたようになり、急いでいるのに思うように歩けなかった。
母に手を引かれるまま、焼け落ちる家屋、工場を横目に湯となって流れる川をじゃぶじゃぶと渡り、悲鳴や助けを求める声を聞きつつもくもくと前進した。
ここではぐれると孤児になると母は必死で私をつかんでいた。母は焼夷弾は円形に落とされていて、焼け落ちたところが逃げ道になっていると言った。着のみ着のまま必死に逃げる人で大混雑する道。
そこをリヤカーに物を満載して進む人を見て驚くことがあった。
やがて夜が開け太陽が昇ってきた。
太陽をよく見ると、真っ赤な火の玉の太陽で輝きがなく、晴れているのに見てもまぶしくなかった。それは大火災によって舞い上がった灰が空を覆っていたからだった。
朝方どこかで「カンパン」を受け取り空腹を癒しつつ歩き続けた。」休み休み歩く途中、ふと見ると母の手には手提げ袋1つしかなかった。休憩中あたりを見ると、電線は垂れ下がり、電柱(当時は木柱)は燃え尽きて消し炭ななって立っていた。
風が吹くなどするとこの電柱の何本かが一斉に倒れる様や音は、まさに恐怖だった。この日は、飴のように曲がった線路沿いを機銃掃射を思いつつ、1日中歩いて夕方叔母の家にたどり着いた。
玄関で防空頭巾を脱いで見ると、飛び交っていた火の粉で焼けた穴だらけだった。家に上がると、疲労こんぱいから食事も取らずに寝込んでしまった。後日、我が家のその後が気になり、母と住所地に向かった。1面焼け野原(惨状)の中、目印になるものが何も無く、なかなか分からないとき、防空壕に埋めていた米びつなどを見つけここと判明した(米がほどよく焼けていた)。セメント製の流し台の上には1升ビンほか数本のビンが、溶けて飴状に固まっていた(火勢のすごさを実感)。
この日をとおして、米軍はかなり正確な地図をもって焼夷弾を落としていたと感じた(キリスト教系施設うあ神社等は焼けていない)
 なお、疎開地に送った家財は駅の火災で焼失したと母に教えられた。また軍属として出征した父は、フィリッピンんのセブ島で戦死との報が母のもとに入った。帰国した父の戦友は、食糧が途絶えて強度の脚気等にかかって島に取り残され、餓死したと母に伝えた。
 戦後の生活
 いつまでも叔母の家に居る訳にいかず、父の兄嫁の里、尾道市に行くことになった。ほかに頼る頼るとこところがなく、かなり強引な行動だったらしい。向かった当日、叔母の家でもらった古着などが大きな袋を東京駅で、私の不注意から「置き引き」された。ここでまた母の手提げ袋1つになった。
被災前に尾道に向かった次男(5才)と4人の生活が、叔父の世話で村の集会所の4畳半1間で始まった。母は将来を悲観して何度となく死を口にしたが、私はその都度拒否した。食糧事情の悪化、排他的な村人のいやがらせ母が仕事で留守中の家事(弟の世話、食事、洗濯など)、叔父の農業手伝い、、遊び等苦しいことや楽しいことを多く経験した尾道時代だった。昭和25年3月(小学校卒業)
愛知県春日井市の母方祖母宅へ、11月京都市左京区の叔父宅へ、昭和26年8月府営住宅に住宅に入居できやっと居候生活に終止符を打つことができたのだった。(中学2年時)。
参考(東大教授加藤陽子著、さかのぼり日本史、とめられなかった戦争、NHK出版)
○B29による東京大空襲ほか
 19446月19日、20日サイパン西方「マリアナ沖海戦」に日本は大敗、サイパン守備隊命運が定まった。7月9日米軍は占領宣言。
44年の5月に運用開始したB29大型爆撃機(高度1万メートル飛行、9トンの爆弾搭載可)の爆弾搭載時航続距離は5300キロ。マリアナ諸島と我が国の距離は2400キロで往復することが十分可能になった。1944年11月、サイパンテニアン、グアムの空港から飛び立ったB29による日本本土への攻撃が開始された。当初は軍需工場の破壊をねらったが45年3月からは都市へのじゅうたん爆撃が採用された。
焼夷弾(19万個)による「3月10日の東京大空襲」から始って、大阪・名古屋・横浜・鹿児島など全国主要都市が空襲された。
サイパン失陥以降の死者
 サイパン失陥ののち、東京大空襲で10万人、原爆で広島14万人、長崎7万人、その他を加えておよそ50万人の民間人がサイパン以降に亡くなっている。ソ連参戦から敗戦の前後に満州で多くの市民が犠牲に。一方日中戦争(1937年)から敗戦(1945年)までの軍人軍属のし死者は230万万人。そのうち約60%
の140万人が広い意味での餓死だったという研究がある。
補給を断たれた島の守備隊がそのかなりの割合を占めている。日中戦争・太平洋戦争での戦死者310万人の大半はサイパン以降の1年余りの期間に戦死している。戦争のターニングポイントはサイパン失陥だった。