崙先生の日本のスパイのお話

snack212014-03-16

15日16時よりデパートでお弁当を買い求め(今までにあんな重い買い物無かった)17時に予約の無いお客様がご来店で崙先生のお話は20時なのでお席確保出来ました。やがてご来店順にお弁当を頂きながら雑談・・・初対面のお客様も6名でした。やがて20時に崙先生がご来店、舞鶴から1人で運転で京都市内まで「途中で大きな事故が有り大変だった」と。先生も食事後直ぐに本題にお入りになり
(平成5年に発行された有る出版社の本を持参でした)
「実はそのスパイのS氏はことごとく僕と関わりがあり僕は大正3年。(二重スパイSは9年の4歳先輩でした。今現在S(家族(お嫁さんと娘)が健在だから僕は皆さんに渡そうと思いましたが資料を用意しませんでした」
昭和23年7月に僕は舞鶴のATISに居た(勤務)Sは24年の1月(?)に引き上げて、CTCに入り(勤務)と同時に僕もSTCに移動でSTCへ、僕の上司になった。(シベリアから)日本に帰るのには誓約書を書かないと帰れずその時の責任者がラストボロフでした・・・新聞に載ったが初めは24名・次は54名・最後は94名だった。Sだけは書かなくて良かった」
ここで先生がご持参の平成5年に発行の2センチくらいの厚みの有る本を此れに書いてあるから皆さんに回して下さいと回覧。9ページにも渡って書かれているので皆さん飛び飛びの拾い読み。何方か1人筆記していましたが・・・
(此れを発表されたのでSは自首した)
又こんな事も・・・僕が教員していた頃のお給料が5000円の時に(昭和25・6年頃)Sはスパイ情報1件に付き20.000円!30数件関わった(60万)

途中から何方かが(昭和14年生まれ)「戦争を仕掛けたのか誰か!!」の意見に
4人がTや!Yや!Tや等4・5人の名前が挙がってOさん(14年生まれ)が「Yは妾を囲っていた」とか・・・Kちゃんは(15年生まれ)は「俺ら終戦の時どんな貧乏だったか、服1枚で着の身着のまま、だから腹が立つ!」

Oさんが「そんなもん、今言うてもアカン!」(爆笑です)
そういえば今夜のお客様の中に満州から引き上げが2人(家族6人で24000円しかお金を持って帰っては駄目だった)
東京大空襲のさなか28歳の母親に手を引かれ爆撃で電柱が火を吹いている状態の中逃げ回った(小学校1年の時、3人の兄弟)元、国立高校の校長先生のOさん。
Kさん(16年生まれ)も大阪空襲のとき2歳だった事と・・・
カウンターにお座りの女性2名(10年生まれの美人さん)が「皆さん苦労してはんねんやなー。私等、京都に居てそんな苦労も無かったし」とビックリ!
カウンターのHさんも「スナックでこんな話できて」と感激でした。
でもこの方も自営の工場経営で「人間魚雷を作っていた」
崙先生のお父さんも「魚雷を販売する会社(軍隊御用達)でした。この後に10数人が個々の戦争の話題で雑談され(男性は女性と違いこんな会話の知識がいっぱいなのですね)崙先生に今聞いておかないと一生聞けない話ばかりだったなー)とIさん。次回は崙先生のご来店に日は5月17日(土曜日)です。

そうそう先生は今度、新車を買ったってお話にビックリして、ドッと笑いが生じました。(皆さんもうソロソロ免許証を返還しょうと思ってるのにーと)90歳ですよ。