O先生の自分史

snack212015-04-19

4月も半分が過ぎました。10日もすれば大型連休が参ります。
桜も終わりましたのに今夜も3組の予約を頂きました。お久し振りで元府立高校の校長O先生とH先生でした。O先生は私にご自分で纏められました、「集団自衛権・・・」「二つの領土問題」「消費税増税」等を解説とご自分の意見をA4の用紙3枚ずつを1部として、私に届けて下さいます。
今日は「大戦体験記」を2枚に纏めたものを頂きました。昭和20年4月・・・未だ戦争の真っ只中に小学校を入学されました。(現在77歳です)
   「大戦体験記」はじめに
住所は東京都新宿区だった。記憶に有る私の人生は、大戦が終わる前年から終戦の年にかけての戦争の恐怖と戦災にはじまる。この体験を何度となく世に紹介することを考えたが、それが出来なくて今日に至った。理由の1つに、学齢を重ね大戦への日本の関わりを知って被害者(戦災)の立場でのこの体験を語ってよいものかを思ったことがある。更に、何故か語ろうとすると惨めな気持ちに成るのが嫌だった。この思いから自分の子供にさえ詳しくは話さず、自分史等に書き留めているのみである。こうした個人的な理由で民族・庶民の貴重な戦争・被災体験を明らかにしなくてよいのか、半世紀以上にわたって葛藤してきたのだった。
ここにおいてゆれる気持ちに終止符を打って体験を紹介し、若い人たちに戦争の恐怖・悲惨さと平和の尊さを感じ取ってほしいと考えた。

○「大戦の恐怖」(1944年)と戦災(1945年)、父戦死。
小学1年時(1944年)、勉強した覚えはまったく無い。日常として、我が家や学校の防空壕堀り、登下校時に音も無く飛来する小型戦闘機による機銃掃射を逃れる練習、登り棒登り、空襲警報の度に学校の防空壕に飛び込む練習があった。食べ物が不足がちになり空腹を訴える時、米軍が落とす菓子類を絶対に拾って食べるなが母の厳命だった。
B29が編隊を組んで飛行する格好良さとは逆に、日本のプロペラ機がB29に体当たりして、きりもみ状態で墜落する姿や、高射砲の砲弾がB29の高さに届かずに破裂する様は、子供ながら見ていて情けなかった。戦果を伝える大本営発表をラジオで聞いたが・・・。
小学2年時、昭和20年(1945年)4月13日「東京大空襲」を体験した。
私は当日麻疹にかかり高熱を出して学校を休んでいた。度々鳴る空襲警報。その度に急ぎ庭の防空壕に飛び込んで横になった。いつでも逃げ出せるよう服を着、防空頭巾をかぶり、靴を履いてであった。恐いのと高熱が重なって壕でふるえていた。寒い夜だった。灯火管制下、暗い町にけたたましく空襲警報が鳴り青白いサーチライトが夜空を不気味に照らしていた時、B29の飛行音とともに焼夷弾雨あられと落ち始めた。我が家の目の前に落ちた焼夷弾が轟音をたてて炸裂し、気味悪い色の火柱がめろめろと立ち上がった。28歳の母は私をたたき起こし2歳の三男を背負って逃げだした。夜の火事は近くて大きく見える。麻疹の高熱と火の恐怖で腰が抜けたようになり、急いでいるのに思うように歩けなかった。
母に手を引かれるまま焼け落ちる家屋、工場を横目に湯となって流れる川をじゃぶじゃぶと渡り、悲鳴や助けを求める声を聞きつつ、もくもくと前進した。ここではくれると孤児になると母は必死に私をつかんでいた。
母は焼夷弾は円形に落とされていて、焼け落ちたところが逃げ道になっていると言った。着のみ着のまま必死に逃げる人で大混雑する道。そこをリヤカーに物を満載して進む人を見て驚くことがあった。やがて夜が明け大陽が昇ってきた。太陽をよく見ると、真っ赤な火の玉の太陽で輝きがなく、晴れているのに見てもまぶしくなかった。それは大火災によって舞い上がった灰が空を覆っていたからだった。朝方どこかで「カンパン」を受け取り空腹を癒しつつ歩き続けた。休み休み歩く途中、ふと見ると母の手には手提げ袋1つしかなかった。休憩中あたりを見ると、電線はたれ下がり電柱は(当時は木柱)は燃え尽きて消し炭になって立っていた。風が吹くなどすると、この電柱の何本かが一斉に倒れる様や音は、まさに恐怖だった。この日は飴のように曲がった線路沿いを機銃掃射の恐怖を思いつつ一日中歩いて夕方伯母の家にたどり着いた。

この様に1枚目を終わりますが・・・2枚目の用紙にはもっと辛い体験がつずられています。28歳のお母さんがご主人が戦死!3人の子供を連れて転々と避難されています・・・2枚のレポートを頂きましたのでお客様でお読みくださいますならお送りいたしますのでメール、電話何れかで連絡下さいね。
何時の日にかに、O先生にお話を聞かせて頂きましょう。この先生が「校長先生」に成られました時にはお母さんは、大変喜ばれた様です。89才まで生きた母を先生はよく親孝行されたようですが「最後まで母はこわかった」との事です。