続・O先生の自分史

snack212015-04-28

実は4月19日「O先生の自分史」を日記に載せさせて頂きました。その先生の、お名前は元府立高校の岡井満さんでした。7年間校長先生を為さって退職されましたが「集団的自衛権行使容認閣議決定(2014・7・1)に際して.他レポートを沢山書かれその1部が「大戦体験記」でした。日記に書かせて頂きました後・・・(勝手に掲載しました事をお詫びして日記と共に手紙を出しました所「宜しいですよ名前もOK」
そして今夜、続きを書かせて頂きます。

(4月19日のタイトル「O先生の自分史」の続き2枚目です。)
玄関で防空頭巾を脱いで見ると、飛びかっていた火の粉で焼けた穴だらけだった。家に上がると、疲労こんぱいから食事も取らずに寝込んでしまった。後日、我が家のその後が気に成り、母と住所地に向かった。1面焼け野原(惨状)の中、目印になるものが何も無く、なかなか分からないとき、防空壕に埋めていた米びつなどを見つけここと判明した(米がほどよく焼けていた)。セメント製の流し台の上には1升ビンほか数本のビンが、溶けて飴状に固まっていた(火勢のすごさを実感))。この日をとおして、米軍はかなり正確な地図をもって焼夷弾を落としていたと感じた(キリスト教系施設や神社は焼けていない)。なお疎開地に送った家財は駅の火災で焼失したと母に教えられた。また軍属として出征した父は、フィリッピンセブ島で戦死との報が母のもとに入った。帰国した父の戦友は、食料が途絶えて強度の脚気等にかかって島に取り残され、餓死したと母に伝えた。
 戦後の生活
 いつまでも伯母の家に居る訳にいかず、父の兄嫁の里尾道市にいくことになった。ほかに頼るところがなく、かなり強引な行動だったらしい。向かった当日、伯母の家でもらった古着などが入った大きな袋を東京駅で、私のちょっとした不注意から「置き引き」された。ここで又母の手提げ袋1つになった。被災前に尾道に向かった次男(5才)と4人の生活が、叔父に世話で村の集会所の4畳半1間で始まった。母は将来を悲観して何度となく死を口にしたが、私はその都度拒否した。食糧事情の悪化、排他的な村人のいやがらせ、母が仕事で留守中の家事(弟の世話、食事、洗濯等)、叔父の農業手伝い、貧乏、遊び等苦しいことや楽しい事を多く体験した尾道時代だった(中学2年時)。
参考(東大教授加藤陽子著、さかのぼり日本史、とめられなかった戦争、NHK出版)
○B29による東京大空襲ほか
1944年6月19日、20日サイパン西方「マリアナ沖海戦」に日本は大敗しサイパン守備隊の命運が定まった。7月9日米軍は占領宣言。44年の5月に運用開始したB29大型爆撃機(高度1万メートル飛行、9トンの爆弾搭載可)の爆弾搭載時航続距離は5300キロ。マリアナ諸島
我が国の距離は2400キロで往復することが十分可能になった。1944年11月、サイパンテニアン、グアム空港から飛び立ったB29による日本本土への攻撃が開始された。当初は軍需工場の破壊をねらったが、45年3月からは都市へのじゅうたん爆撃が採用された。傷痍弾(19万個)による「3月10日の東京大空襲」から始まって、大阪・名古屋・横浜・鹿児島など全国主要都市が空襲された。
サイパン失陥ののち、東京大空襲で10万人、原爆で広島14万人・長崎7万人、その他を加えておよそ50万人のの民間人がサイパン以後に亡くなっている。ソ連参戦から敗戦の前後に満州で多くの市民が犠牲に。一方日中戦争(1937年)から敗戦(1945年)までの軍人・軍属の死者は230万人。そのうち約60%の140万人が広い意味での餓死だったという研究がある。補給を断たれた島の守備隊がそのかなりの割合を占めている。日中戦争・太平洋戦争での戦死者310万人の大半は、サイパン以後の1年余りの期間に戦死している。戦争のターニングポイントはサイパン失陥だった。